森を走る

 あなたは、森の中を思いっきり走ってみたことがありますか?

 いや、森に覆われた道を走ったことがあるかという意味ではありません。文字どおり、道のない森の中を、木々の間を縫って、全力で突っ走った経験があるでしょうか。

 この「森の中を走る」という遊びは、今までのガイドブックではまったく紹介されたことがありませんでした。それはそうでしょう。ガイドも何も、ただ木や草の生えている森の中を「走る」だけなんですから。でも、経験のない人には想像することも難しいと思います。そんな風に森の中をただ走るだけで、いったい何がおもしろいというのか?

 この楽しさは、実際にやってみた人でないとわかりません。人の手が加わっていない森の中には、どのようなものが待ち受けているか、誰にも完全には予測できない部分があります。足下にはヘビが這っているかもしれないし、落ち葉の下には深い穴が口を開けているかもしれないし、土の中に巣を作っているオオスズメバチを激怒させて超強力な毒針で逆襲されるかもしれません。実際、私は(走っている時ではありませんが)森の中でうっかり彼らのテリトリーを踏み荒らしてしまい、後頭部を含む四カ所に懲罰の刻印を押されて、数日間高熱を出して苦悶したことがあります。

 けれども、そのようなリスクを承知で意識を活性化させて、澄んだ空気を吸いながら森の中を走ってみると、理性の考え及ぶところでは見つかることのない根元的な快感が、身体を流れる血液の中から湧き出てくるのがわかります。人間の脳味噌は、もともと爬虫類と同じ仕組みの脳の周囲に、建て増しのような形で人間特有の思考回路が発達してできたものだと言われていますが、森を走るという行為は、この爬虫類の脳に秘められた獣性を、非攻撃的な形で顕在化する試みだと言えるかもしれません。

 私は、少年時代にボーイスカウト(カブスカウト)に参加したことがきっかけで自然の中で遊ぶ楽しさを覚え、見通しのきかない森に対する恐怖心もいつのまにか消え去っていました。そして、20代後半で測量の仕事に携わった時、これからダムができるという原生林の中に足を踏み入れた私は、少年時代に覚えた遊びをいろいろ思いだし、仕事の合間の休憩時間には測量現場の周辺を一人で探索するのが習慣になっていきました。

 そんなある日、測量作業に必要な器具を山の麓に駐車した車の中に忘れてしまったことが判明し、私は現場のリーダーからすぐに取りに戻るよう指示されて、森の中を車の方向に向かって走りだしました。すると、徒歩でゆっくりと進んでいた時とはまったく違った風景が、私の視界を左右に走り抜けてゆくではありませんか。私はなんだか興奮してスピードを上げ、木の幹を避けて障害物を飛び越えながら、自分があたかもその森に住む動物になったような気持ちで、衣服に当たった葉のこすれる音を聞きながら走り続けました。森を走ることの楽しさを知ってしまった私は、それ以降も機会があるごとに、他の測量スタッフには内緒で(というか、あいつ何やってるんだ、と多分思われながら)森の中を走る楽しみを味わっていたのです。

 改めて言うまでもないことですが、ケガをするのが怖いという人には、この「森を走る」という遊びはお奨めできません。森を走ることに伴うリスクは、走る本人がすべて背負うべき性質のものです。しかし、最初はゆっくりと、慣れてくれば少しずつスピードを上げて、森の中を走ってみれば、だんだんと注意すべき事柄というのがわかるようになってきます。数歩先の着地点を常に確認しておくこと、顔の高さに障害物(小枝など)が来ないよう走る方向を調節すること、急斜面や凹凸の激しい場所はコースから外すこと、そして、動物の痕跡が視野の片隅に入ったらとりあえず静かに停止すること。

 どうです、簡単そうでしょう? あとそれから、靴もしっかりしたものを履いた方がいいですよ。窪みで足を挫いたりしないよう、くるぶしまでの長さがある軽めのトレッキング・シューズがベストです。

 森を走る時に怖いのは、実はケガではなく、自分のいる場所がわからなくなってしまうことです。ですから、慣れないうちは馴染みのある森で練習してみるべきでしょう。人間の方向感覚というのは、訓練によって発達させることができるはず(科学的に証明されているかどうかは知りませんが、私は測量屋時代にそのことを確信しました。残念ながら、現在は未開の山中に入ることもなくなったので、その感覚もだいぶ鈍ってしまいましたが)。迷ったな、と思ってもちゃんと元の場所に戻れるよう、目印をいくつか決めてから、自分の好きなスピードで走り出してみてください。

 でも、森の中をむやみに走ってる人間って、端から見れば確かにちょっと不気味ではありますね。いくら森を走るのが快感だからといって、山の中に洞穴を掘って、野生の暮らしを始めたりするのは考えものです。遊んだ後は、ちゃんと普通の社会人に戻ってこられるよう、節度を保って楽しんでください。

(文/写真 山崎 雅弘 2008@mas-yamazaki.com

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