国際的な軍事紛争の勃発に際して、武力行使ではなく外交での解決を望むという主張は、現実には通用しない意見なのでしょうか。

 第二次大戦後の日本では、自国が中心となって引き起こした戦争の惨禍に対する反省と、自らの発言に対して何の責任も負わなくてすむ、あるいは紛争に当事者として巻き込まれなくてすむという身軽さが入り交じった情緒的な善意から、このような「武力ではなく話し合いで解決を」という意見が好まれてきました。そして、このような意見を口にする人たちは、武力解決を叫ぶ人々よりも平和を好む人間であると、一般的には考えられてきました。

 しかし、もし本気で軍事力による問題解決を否定し、話し合いによる理性的な解決を模索するのであれば、まず第一に、誰と誰が、どのような権限を誰から委任されて、どこで何を話し合うのかという、交渉の具体的なイメージを提示しなくてはならないはずです。そして、その交渉が決裂した場合に、次善の策としてどのような代案をとるのかという二次的な計画を、あらかじめ想定しておかなくてはなりません。

 このような具体的な話し合いのイメージを提示することもせず、ただ言葉の美しさだけに惹かれて「武力ではなく話し合いで解決を」との意見を口にするのであれば、そのような実体を伴わない意見は紛争の解決に何ら寄与しないだけでなく、その紛争による被害を受けている当事国の人々の目から見ればきわめて無神経かつ無責任な態度に映ることを覚悟しなければならないでしょう。紛争地で今まさに生命の危機に直面している人々にとっては、自分は何もせずに空疎な言葉を叫んで問題解決を引き伸ばす勢力よりも、自分に銃を向ける「敵」の脅威を取り除いてくれるかもしれない軍事力を持つ勢力の方が、はるかに頼り甲斐のある存在だからです。

 また、国際紛争の中には「絶対に話し合いでは解決できない」問題が存在するという事実も、直視しておかなければなりません。例えば、紛争の原因が土地の領有権をめぐる問題である場合は、一方の譲歩によって和平が成立する可能性があります。しかし、宗教上の教義が紛争の原因となっている場合、そのような譲歩による解決は期待できない場合が多いのです。特に「原理主義」と呼ばれる信徒の場合、教義の内容にそぐわない形で相手に譲歩することは「神を裏切る」ことを意味するため、紛争解決のための譲歩を彼らが選ぶとは考えられないからです。

 もし日本政府が、軍事力の行使を伴わないで紛争回避に貢献できるような存在となれば、日本という国の国際的地位は、飛躍的に上昇するであろうと思われます。国際的な摩擦が武力紛争へと発展する前に、当事者双方の間で仲介役となって交渉をリードし、時には日本からの経済援助を紛争回避の武器として活用しながら、軍事衝突の回避を図る。こうした形での「国際貢献」が実現すれば、日本国民にとっても理想的と言えるでしょう。

 しかし、現実には日本政府がこのような役割を果たすことはほとんど期待できません。これは、なにも政治家や官僚にその能力が欠けているからというわけではなく、むしろ一般の日本国民の側に、そのような政府の努力を評価する土壌がほとんど醸成されていないというのがその理由です。

 既に発生している紛争を外交努力によって停止させることは、国際的に見ても目立つ行為であり、評価の基準も設定しやすいと言えます。実際、このような試みを成功させたことで、ノーベル平和賞を受賞した政治家は過去に何人も存在します。

 けれども、まだ発生していない紛争の回避という行動は、定量化することができず、評価の基準を設定することはきわめて難しいのです。なぜなら、その努力がなければ紛争が発生したということを、客観的に証明する方法はないからです。その反面、このような交渉は多大の資金を必要とするものでもあります。成果が目に見えない努力に政府が資金を投入し続けた場合、野党の政治家は必ずその問題を捉えて与党を攻撃し、政権奪取のきっかけを掴もうとするでしょう。そして、税金を使って行われるこのような努力の成果を具体的に証明する手段が存在しない以上、国民は全面的に政府を信じて税金の投入を支持し続けるか、あるいは成果の見えない用途に税金を使うことに対して強く反発するかの二者択一を迫られることになります。

 実際、米国の情報機関CIAは、これまでに何度も同種の国民的な圧力に晒されてきました。アメリカが直接的な戦争の危機に晒されていない間は、同局に対する予算削減の圧力が強まり、危機が発生すると同局の怠慢だとの非難が浴びせられて、予算の大幅な増額が認められます。しかし、再び平安が訪れれば、同局に割り当てられた予算は「無駄」と見なされて、削減の対象として論じられます。彼らの資金の使い道には、問題が無いとは言えないと思いますが、しかしCIAに対する経費削減の圧力が、結果として大規模なテロ計画を見落とす遠因のひとつとなったことは否定できない事実です。

 目に見えない「成果」に対して国民が正しく評価する環境を整えることは、確かに難問のひとつではあります。しかし、このような環境を創り出さない限り、国際間の摩擦を「話し合いで解決する」という理想の実現はほとんど期待できないこともまた事実なのです。

 

文・山崎 雅弘
出典:学習研究社「現代紛争史」あとがきを一部修正

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