──頂上を目がける闘争ただそれだけで、
  人間の心を満たすのに
  充分たりるのだ。
        (アルベール・カミュ「シーシュポスの神話」)

 

 事業がうまく進展しない。そんな時、人は毎日のつらい労働に意味を見いだせなくなる。自分は一体何のために、こんなにも苦しい思いをしながら毎日を生き続けねばならないのか、と。
 いつか報われる、と誰かが保証してくれさえすれば。そう考えて、信仰や占いに救いを求める人も多い。だが、情けない己の姿を直視する代わりに得られる心の平安とは、咲いては枯れる花のように、はかない希望でしかない。花と戯れている間だけは、その美しさと香しさに酔い痴れて、全てを忘れることができる。しかし、永遠に咲き続ける花など、ありはしない。
 『シーシュポスの神話』という作品の中で、カミュが描いている主人公シーシュポスは、罰として大きな岩を山頂に押し上げるという労働を神々から命じられる。ところが、その山の頂に差しかかったところで、岩はそれ自体の重みによって斜面を転がり、山の麓まで一気に転落してゆく。だが彼は、その悲惨な運命を自らの意志で肯定することにより、何者にも支配されない者として、すがすがしい気持ちで、永遠に続く実りのない労働を続けてゆくのだ。
 人生が自分の思い通りに進展してくれたなら。誰でも一度ならずそう願う。けれども、それが実現しても決して、真の安らぎが得られるわけではないこともまた、よく判っているはずだ。
 そして、たとえその姿は見えなくとも、山の向こう側では誰もが皆、同じように山頂を目指して岩を押し続けているのだ。自らの境遇を意識しながら生きる我々の頭上には常に、大きな太陽が輝いていることを忘れないようにしたい。

文・山崎雅弘
出典・「国際ジャーナル」1997年4月号
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