一部の強国(より正確に言えば、その強国に本拠を置く利益追求集団)が、多数の発展途上国を経済的に支配するという、かつての帝国主義時代の構図を連想させる「グローバリズム」という言葉に代わって、最近では「新自由主義」という言葉が、盛んに使われ始めているようです。ここで言う「自由(主義)」とは、経済的自由あるいは商業的自由のことですが、本来はそれよりも高い価値を置くべき「精神的な自由」や「表現の自由」は、「新自由主義」の価値判断基準ではあまり上位には置かれていないようです。
一般的には、二〇世紀後半の「東西冷戦」の時代に、共産主義との戦いで勝利を収めたとされる「自由主義」の、さらに発展形であるということになっている「新自由主義」は、経済的自由や商業的自由を通じて、精神的な自由や表現の自由をも同時に保証しているかのように、一般には信じさせられています。それが建前です。しかし、世の中の動きを冷静に見通してみれば、経済的自由や商業的自由が目指す方向と、精神的な自由や表現の自由が保たれる社会とは必ずしも一致しておらず、それどころか経済的自由や商業的自由の際限のない追求それ自体が、精神的な自由や表現の自由を根本から阻害している実例を、いくつも発見することができます。
その典型的な例が、テレビの視聴率競争です。「スポーツ中継で日本代表戦の視聴率が何パーセントを超えた」とか「新番組の第一回視聴率は予想に反して何パーセントで低迷」などと、あたかも番組の内容や完成度を定量化できるかのように語られることの多い「視聴率」ですが、本来は単純に番組スポンサーのコマーシャル放映の見返りに得られる広告価格を決めるための便宜上の目安であり、番組そのものの「質」とは関係がありません。番組そのものの「質」で広告料を決めようとすれば、その「質」を誰がどのような方法で判断・評価するのかという難しい問題が出てきますが、広告料というのは本来、どれだけ多くの人にその会社または商品の広告を「見せる」ことができるかによって決められるので、雑誌の場合は発行部数で、テレビ番組の場合は「見ている人の数」を示すとされる視聴率の数字によって、金額の高低が判断されます。「示すとされる」と留保付きで書いているのは、視聴率の数字を集計・提示している組織が公的機関ではなく、広告金額の決定にも深く関わっている大手「広告代理店」の関連会社(民間)で、その数字が正確かどうかを第三者が検証する手段が事実上存在しないからです。
しかし、テレビ番組の製作者にとって、数字が1パーセント違えば年間の広告収入が1億変わるとも言われるこの「数字」が、番組製作の「自由」を阻害する大きな足枷となっていることも事実です。番組製作者がいくら「質の高い番組を作りたい」「この番組に、この人物を出すことはしたくない」と思っても、テレビ局の経営者が彼らに要求するのは「質が低くてもいいから多くの人に見られる番組を作る」あるいは「スポンサー企業が喜んでお金を出してくれる(その企業の広告キャンペーン等に登用されている)タレントやスポーツ選手を出演させる」ことなので、製作者は「精神的な自由」や「表現の自由」を捨てて、経済的自由や商業的自由を追求せざるを得ない境遇に追い詰められることになります。なぜなら、視聴率というのは同業他社(他のテレビ局)との競争で決まる相対的な数値であり、視聴率を取れる番組を作ることは紛れもなく「経済的自由や商業的自由の追求」を意味するからです。
先日閉幕したトリノ・オリンピックの開催直前に、事前の大会での成績が芳しくなかったある女子スケート選手が日本代表に選ばれたことで、物議を醸した時期がありました。日本代表選手の決定権を握る統括団体は、運営費を企業からのスポンサー収入に依存していますが、この女子スケート選手はいくつもの有力スポンサー企業との間で広告への出演契約を交わしており、彼女がオリンピックに出場できるか否かは、スポンサー企業の広告効果を左右する重要な意味を持っていました。そのため、日本のオリンピック統括団体は、代表選手の選考についての「自由」を、事実上有力スポンサー企業によって奪われ、もはや選択の余地なく、コンディションや実力とは無関係に、彼女を代表選手にすることを余儀なくされたのです。
こうした図式を知ると、問題はもはや個人の裁量で左右できるものではなく、大量の金銭が持つ「重さ」によって物理的に作り出される「構造」から生じていることを思い知らされます。金銭が持つ「重さ」それ自体には、何の罪もありません。しかし、その「重さ」を支え、管理し、移動させる作業において、人間の情緒や良心は、ほとんど何の影響力も持ちえないというのが、厳しい現実の姿です。経済的自由や商業的自由の追求は、全ての業種に「過当競争」をもたらすことになり、価格競争やコスト競争に苦戦する企業の中には、少しでも商品の価格や製造コストを下げるために、安全性が確認されていない材料を使用したり、決められたよりも少ない材料しか使用しなかったりする会社も出てきます。
ふと気が付くと、我々の住む社会は、経済的自由や商業的自由の追求に伴って、刻一刻と、良心(グッドウィル)とは対極の方向へと突き進んでいます。食品の産地「偽装」や建物の強度「偽装」などが日常茶飯事のごとく暴露され、「先進国」と名乗るのもおこがましいような、日本人が近代化の過程でとうの昔に克服したはずの品性下劣な出来事が、日々のニュース番組で報じられています。そして、いつの時代においても、地球上のどの地域においても、常に重大な社会問題となってきたはずの「富の分配における構造的な不平等」が、あたかも「フェアな競争の結果」であるかのように、メディアを通じて宣伝され、そのように我々は信じさせられています。
経済的自由や商業的自由を至上命題とする社会システムが強固な鎖のように地球を覆い尽くしている現在、自分と家族だけがそこから脱却しようと思っても、無駄なあがきなのかもしれません。これを書いている私自身も、日々の生活において、この「新自由主義」の社会から少なからず恩恵を得ているのは逃れようのない事実です。しかし、歴史の流れを踏まえて現在の状況をよく見ると、人類が何度も経験してきた「衰亡と苦難の時代」へと差しかかる直前の段階と、不気味なほど多くの共通点を見つけることができます。いつの時代にも、精神の自由を失った人々は、創造性や将来への希望を失い、社会問題の解決法を探る気力すら喪失して、自らの住む社会が少しずつ瓦解してゆくのをただ見守ることしかできませんでした。
人間の脳の構造と思考形態が、太古の時代から本質的には変わっていない以上、繁栄と衰亡の歴史は、どうしても繰り返されなければならないものなのでしょうか。
文・山崎 雅弘
出典:山崎雅弘ブログ 2006年6月3日
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