かつて中国では、正史、野史などの区分があり、正史は官製の歴史として絶大な権威をもった。しかし、正史には、支配体制の利害がはたらいて多くの欠落が生じた。中国以外の各国でも、この傾向は共通していた。近代に入ると、学問に基礎を置く歴史叙述が、正統性を獲得した。このような歴史が、現代の「正史」となったのである。
 しかし、そこにも多くの欠落が生ずる。もともと歴史は、過去における可能性の束と、その現実化の過程として把握される。しかし、現代における「正史」が、これをすべて明るみに出すことは、とうてい不可能である。 (中略)
 歴史は人間がつくり、現につくりつつある。史実とは、さまざまな欲望をもった人間たちの葛藤の一帰結ともいえる。諜報・謀略とは、人間がこの葛藤に生き残るべく発展させてきた活動分野である。社会体制が個人を凌駕する現代においては、この葛藤は、人間と社会体制とのきわめて切迫したかかわりとして存在する。

 

 上の文章は、日本メールオーダーという会社が、1970年代に刊行したシリーズものの翻訳歴史雑誌「20世紀の歴史/現代諜報謀略戦史」の冒頭部分に記された言葉です。「フランス・レジスタンス」の原稿執筆のために、同シリーズの一冊をひもといた際、今までは素通りしていた「読者の皆様へ」という巻頭言が目に留まり、何気なく読んでみたのですが、その含蓄の深さというか、歴史認識や歴史記述という行為に対する視点が、現在の私が持つそれとあまりにも近いことに驚き、思わず「う〜む」と唸ってしまいました。

 歴史とは、唯一つの結論だけを示す「正史」ではなく、実際にはそこに至ることのなかった「さまざまな可能性(ポシビリティ)」を含めた「状況の全体像」として理解すべきではないかと、私は十代の頃からずっと考えてきました。歴史シミュレーション・ゲームという、一般の人にその魅力を説明することの難しいホビーに、これほど深くのめり込むことになったのも、特定の歴史を「過去における可能性の束と、その現実化の過程として把握」できるという、他の何物にも代えがたい特徴に魅せられたからだと思います。

 最近、アメリカの有志が製作し、著作権を放棄して実費で配布している、9.11事件(米同時多発テロ)に関連するドキュメンタリーDVDを2枚、ネットオークションで入手する機会がありました。両方とも、事件の細部に数多く存在する「疑問点」を徹底的に検証する内容で、日本でも過去に同種の番組が放映されたことがありましたが、非常に論理的かつ合理的な視点(学者や専門家、当時現場にいた警官や消防士のコメントも多数収録されています)から「実際の9.11事件の本質は、現ブッシュ政権が発表し、メディアがそのまま伝えてきたものとは違うのではないか」という疑問を見る者に強く感じさせるものに仕上がっています。具体的な事例をここに挙げるには、あまりにも多すぎるほど大量の「合理的な説明のつかない疑問点」と「どう組み合わせても互いに整合しない矛盾した事実」が、9.11事件の周辺には厳として存在しているようなのです。

 このような視点による分析は、学問的な視点での「正史」においては「陰謀論」あるいは「謀略説」といった、いかがわしさを印象づけるレッテルが貼られてきました。しかし、上の文章で述べられているように「歴史は人間がつくり、現につくりつつある」「史実とは、さまざまな欲望をもった人間たちの葛藤の一帰結ともいえる」「諜報・謀略とは、人間がこの葛藤に生き残るべく発展させてきた活動分野である」「社会体制が個人を凌駕する現代においては、この葛藤は、人間と社会体制とのきわめて切迫したかかわりとして存在する」という視点に立てば、9.11事件に関する諸々の出来事についての「結論を一時保留し、謀略(=葛藤を克服するための人間的行為)の可能性についても判断の余地を残しておく」という態度は、思考を停止して公式発表を鵜呑みにする姿勢よりも、はるかに知的に健全であるように思われます。

 私は別に、先に述べたDVDを観たからといって、9.11事件が現ブッシュ政権の「自作自演」であるなどと結論づけるつもりはありません。しかし、だからと言って現ブッシュ政権が、同事件の本質に関わる(そして合衆国ではなく現政権の利害に関わる)全ての情報を公開しているとも考えていません。白か黒か、正義か悪か、テロか反テロか、という二者択一の思考パターンは、現ブッシュ政権が好んで使うのみならず、日本のメディアもそれと意識せずに多用する「思考の落とし穴」ですが、こうした「問題の単純化」が本質の理解を深めることは決してないはずです。勝者か敗者か、傑作か駄作か、成功か失敗か、などの二者択一の思考パターンに頼り、単純な結論を得て安心することは、肉体年齢に関わらず、精神の老化現象の一種だと言えるかもしれません。

 中腰の姿勢を長時間にわたって保つのには足腰の筋力が必要なのと同様、特定の出来事に関する「結論」を保留したままの思考状態を長く維持するのは、知的に疲れる行為であることは確かです。それゆえ、人間は白か黒か、どちらかの「結論」を出して、重い荷物をどちらかの棚に置きたがるのでしょう。しかし、知的な筋力を鍛えることで、白でも黒でもない、表現することの難しい現実世界の「灰色」を認識し、何らかの方法を用いて、その微妙な「灰色」の濃淡を他者にも伝わるように「表現」することは、可能であると私は信じています。その表現手法は、私にとっては文章が主ですが、ある人にとっては絵画であったり、映画であったり、あるいは生き様それ自体であったりするのでしょう

 

文・山崎 雅弘
出典:山崎雅弘ブログ 2006年5月13日(一部修正)

 


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