阪神タイガースの株式上場を提言している村上世彰氏が、身の危険を感じて連日怯えているという。熱狂的なタイガースのファンとおぼしき匿名の人間から、いいかげんにしないと危害を加えるという主旨の脅迫を受け続けているのだそうだ。
「タイガース上場か?」という話題がマスコミに出た当初から、大阪では「あんなこと言うてたら、あいつ殺されるで」と噂されていたから、話の流れとしては特に驚くようなことではないが、今頃になってファンの脅迫に怯えているという話が本当なら、村上という人物は自分のやっていることの意味がよくわかっていなかったのだと思う。
阪神タイガースは、イタリアにおけるフェラーリのようなもので、関西の人間にとっては単なるプロスポーツ組織を超えた「地域文化」である。体裁は民間企業だが、実体は地域の共有資産に近い。「オーナー」や「社長」は、いわば「代表管理人」であって、球団の「所有者」として法律で認められた権利を私的に主張できる立場にはないのである。
だから、それを簡単に売買できるような「商品」にしてしまおうという村上氏の行動は、地域文化の破壊と見なされ、感情的な反発を喰らうことになる。もちろん、村上氏の行動はすべてこの国の全ての法律に則ったものであるから、法的な正当性は村上氏の側にも存在する。つまり、どちらが正しいという結論は今なお誰も出せないでいるのだ。
この村上氏とタイガース・ファン(の一部過激派)という図式を地球全体に当てはめると、現在の国際情勢とかなり共通する部分が見えてくるように思える。巧妙に組み立てられた資本主義の論理と国内法・国際法の高度な知識を武器に、地球上のあらゆる物事を売買可能な「商品」に変え、自らの資産を増やすために利用し尽くそうという勢力と、昔ながらの「地域文化」に土足で入り込む彼らに敵愾心を抱いて抵抗しようとする勢力。残念ながら、後者の人々には「法律の専門知識」も「豊富な資金」も備わっていないから、彼らが持つ「唯一の武器」で戦いを挑むことになる。
このような書き方をすると「お前は暴力やテロを是認するのか」と思われるかもしれないが、私はただ全体の構図を模式図的に説明しているだけであって、どちらが正しくてどちらが間違っているという判断はここでは下していない。それに、一方の行動を否定することが、ただちに一方の行動の正当性を保証するものでもない。「タイガース・ファン(の一部過激派)が正しくない」から「村上氏が正しい」ということにはならないのである。
ここ数年間にプロ野球界で起こった一連の騒動には、こうした地球規模での「価値観の対立」がよく表れているように思える。ライブドアの堀江氏、楽天の三木谷氏、そして通称村上ファンドの村上氏らは、特に野球というスポーツに愛情や熱意があるわけではなく、ただ金儲けゲームのカードとしての価値に気付いて、売買可能な「商品」である球団を持とうとしているに過ぎない。だから、仙台のファンに愛され始めていた田尾監督を、3年契約の約束を反故にして一方的に切り捨てるというような、野球ファンの素朴な気持ちを踏みにじるような行動も平気でとれる。
ある時、テレビの対談番組に出演した村上氏は、熱心なタイガース・ファンである他の出演者を、こんな理屈で説得しようとした。「あなたも、株を買うことでタイガースを自分のものにできるんですよ?」この説得は何の効果ももたらさなかったが、この軽率な言葉は村上氏的な人間とそうでない野球ファンの決定的な思考回路の違いを浮き彫りにする意味はあったと思う。
村上氏的な思考回路を持つ人間には理解できないことだろうが、タイガース・ファンは「株を買うことでタイガースが自分のものになる」などという考え方はしない。もう既に、今のままで「タイガースは自分のもの」なのである。法的な所有権がどうしたという問題ではない。応援しているから、自分のものなのだ。それで充分なのだ。タイガース・ファンに限らず、野球ファンは皆、自分の応援するチームが、親会社の都合や「資本の論理」で経営基盤を揺るがされ、選手が野球に集中できないような状況になってほしくない、と願っている。「それを自分のものにするためには、株を買って大株主になればいい」という村上氏的な価値判断基準は、星野仙一氏が喝破したように、一般の野球ファンの価値判断基準とは「水と油」のような論理であって、両者が溶け合うことはありえない。
また、少し想像力を巡らせてみれば誰にでもわかることだが、もし一般の野球ファンが自分の応援する球団の株式を所有した時、おそらく各試合の勝敗を見る目はそれまでとは違ったものにならざるを得なくなるだろう。ただのファンでいた頃は、昨日も勝った、今日も勝った、明日も勝ってまた優勝してくれ、と素朴に喜んでいられたが、株主ともなると経営的な判断を介在させるため、チーム成績の向上を喜んでばかりもいられなくなる。何年も続けて優勝すれば、主力選手の年俸は倍々ゲームでアップして、多少の収入増では補い切れないほどの人件費が必要になる。そうなると、株主にとっては「毎年優勝争いはするけれど、優勝はたまにしかしない人気チーム」が理想的だということになる。実際、江夏豊がタイガースに在籍していた頃、フロントから「(経営上の理由から)今日は勝つな」と言われて、愕然としたというエピソードも残っている。
現在の日本のメディアでは、村上氏的な「資本の論理」に対する疑問はどこからも出ておらず、あたかも「資本の論理」だけが社会の価値判断基準であるかのように見なされている。テレビや新聞、主要雑誌は、成功したビジネスマンを英雄のごとく礼賛する均質的な価値観に支配されており、彼らがビジネスを通じて壊してしまった「文化」についての言及はない。「資本の論理」に壊され続けている文化の筆頭は、言うまでもなく「食文化」だが、テレビの午後6時代の報道番組ではそれに疑問を呈するどころか、マクドナルドの新メニューを「ニュース」として番組内で大きく取り上げ、全国ネットでの宣伝に一役買わされているのが現状である。メディアが広告収入に全面的に依存する「資本の論理」が支配する社会では、広告主は「メディアの飼い主」であり、餌をくれる彼らのご機嫌を現場の記者やスタッフが損ねることは絶対に許されない。しかし、本当にこれでいいのか、と疑問を持っている人間は、少なくとも私の周囲には少なからず存在する。
この10年ないし20年を振り返ってみれば、旧ソ連が崩壊した1991年頃から、地球全体でこうした問題が再び深刻化していったように思える。「資本主義対共産主義の経済戦争」で「共産主義」が敗北したことにより、資本主義勢力のリーダー国は「自分たちの価値判断基準だけが正しいのだ」との確信を強め(「歴史の終わり」と題された勝利宣言の書物まで登場した)、それまで共産主義勢力に託されていた「資本の論理に対する批判(カウンター)」は雲散霧消してしまった。しかし実際には、共産主義は「反資本主義」でないどころか、その実体は私的資本主義でないというだけの「国家資本主義」に過ぎず、彼らが批判したはずの「特権階級による富の独占」という暗部すらそのまま真似ていたことを考えれば、マルクスやエンゲルスを起源とする共産主義の思想は最初から「資本主義」に対抗できる価値判断基準ではなかったとしか思えない。
現状の「資本主義」という用語で括られている概念の中には、文化の破壊などにつながらない穏やかな経済行為もあるから、一概に「資本主義」を全否定するつもりはない。ただ、地域文化や食文化、そして自然環境のバランスなど、実質的にブレーキ機構を欠いた「資本の論理」の暴走が、それを創り出したはずの人間の生活圏を着実に壊し続けていることも、動かしがたい事実であるように思える。
だとしたら、現在の世界を覆う暴力的とも言える「資本の論理」に対抗できる価値判断基準とは何なのか。浅学の私にはその片鱗すら掴めないが、少なくとも「○○主義」という固定されたイデオロギーでないことは確かだろうと思う。もし、誰もそれについて考えず、現状の「資本の論理」だけが支配力を強めていくとしたら、おそらく「テロの時代」はいつまでたっても終わることなく続いていくに違いない。国家単位のテロだけでなく、個人単位のテロも、少しずつ増えていくことだろう。なぜなら、自由、平等、博愛など、テロとは対極に位置する価値判断基準はすべて、資金力と法律知識で完全武装した「資本の論理」の前では髪の毛一本ほどの力も持たないからである。
文・山崎 雅弘
出典:山崎雅弘ブログ 2005年10月28日
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